Franco Leprino

  イタリアのミュージシャン「Franco Leprino」。53 年生まれ。ギター、作曲、電子音楽などの正規の音楽教育を受けた作曲家/演奏家。

 Integrati ... Disintegrati
 
Franco Leprino classic & 12 string & electric guitar, VCS3 synth, Moog satellite, vibraphone, mouthharp in MIb & in LAb
 bell, cymbal, microphone, mastichio, Binson electric echo unit with old head
Franco Lazzaro Thomas & Hammond organ, Moog satellite, Eminent synth
Arnaldo Ciato piano
Alfio Squaiella flute
Tosi oboe

  77 年発表のアルバム「Integrati ... Disintegrati」。 アコースティック楽器(主にギターとピアノ)の音色と、エレクトリックなエフェクトを波打つように組み合わせたアンビエント・ミュージック。 ドラムレス(ベルやシンバルはあり)であり、反復やノイズ、SE を駆使したきわめて神秘的、瞑想的な世界である。 きっちり作り上げられた世界というよりは、取りとめのなさが、かえってリラックスさせてくれる性格をもつように思う。 そして、内宇宙を探訪するようなスケールのあるインストゥルメンタルでありながら、無機的なばかりではなく、人間の呼吸のような暖かみが感じられる。 特にアコースティック・ギターが巧みに用いられており、作品全体の誠実で素朴な味わいはこのギターのプレイによるような気がする。 その音色には清潔感があり、さざめくようなアルペジオには内省的にして可憐さもある。 また、前半終盤や後半中盤に現れるフルート、オーボエも美しい。 シンセサイザー、エレクトリック・エフェクト、テープ・コラージュも多用されるが、単に「音」だけではなく「演奏」というニュアンスも強く、アンサンブルによる音響の美しさに力点があるようだ。 したがって、マジカルな反復や人工的な音響変化にもかかわらず、クラシカルな構築性があり、アクセスしやすいファンタジーとなっている。 音に対する深く慎ましい思いが感じられる、といってもいいだろう。 アコースティックな演奏には、マイク・オールドフィールドやアンソニー・フィリップスの作品に通じるところもある。 やってきては去ってゆくという流れは、無常感を生むとともに、刹那を抱きしめたくなるような気持ちにさせる。 私含めいわゆる音響作品が苦手な方にもお薦めできます。 タイトルは、おそらく「統合...解体」の意。

  「Lato A:」(19:15)アコースティック・ギターのアルペジオとさまざまなシンセサイザーによる緩やかなシーケンス。 神秘的でロマンティックな響きが GENESIS を思わせる瞬間も。 単純な反復が不思議とドラマティックである。 後半は、エチュードのようなピアノと何かを咀嚼するような音、赤ん坊の泣き声などの SE が連なり、オルガンと電子音が渦巻き始める。 この作品がおそらく「統合」をイメージしているのだろう。

  「Lato B:」(21:30)人工的、無機的な電子音によるハーモニーならざるハーモニーが、不安感をかきたて神経を逆なでするが、中盤から次第に安定感が生まれてゆき、アコースティック・ギターのアルペジオ、フルートによるアンサンブルへと流れが注ぐ。 12 分付近のフルートが美しい。 以降、ギターのストロークがビートを生み、シンセサイザーの調べが緊迫感を孕みつつも緩やかにうねってゆく。 こちらはおそらく「解体」をイメージした内容なのだろう。
  
  以下にスリーヴに書かれた作者のコメントを記載しておきます。
   音楽は音である。 音響の法則に関して言えば、音はある期間内の空気圧のさまざまな変化といえる。 音は、糸や皮や気柱の振動によって生まれる。 音は、群集の生む非人間的な喧騒であり、やかましい子供の泣き声であり、体の中から出るノイズである。 原始人は、音楽を聖なるものや超自然的な要素と関連付けることが多かった。 進化と発展によって元来の神秘性を拭い去られているとはいえ、現在でも音楽は、現実世界からの逃避の方法の一つとなっている。 おそらく、音楽は、現実との対応づけをしなくていい唯一の芸術なのだ。 わたしは、音楽が矛盾を孕みながらも我らが時代の真の表現として活動的な役割を果たせば、と願う。 同様の提言は、今世紀の最初の 10 年にフーチャリストたちによって成された。 しかし、彼らが発展と技術を賞賛することに重きをおいたのとは異なり、わたしの説は、彼らの前提が生み出したところの消費社会の矛盾を表現することである。 審美観への古典的な道は、この競合における判定のためのパラメータではありえない、というのは前提と目的が異なるからだ。 音楽的な言葉への不可欠な帰結である美は、和声やメロディとは一致せず、厳しさや厄介ごととも一致しない。 音楽は、それゆえ、逃避することだけではなく、何がわれわれの真実であるかまた何がそうであるべきかということに直面し、意識することである。 わたしは、このような意図のある音楽は、一部の音楽的なエリートのためではなく、音楽は大衆的な性質をもつという理由で、多くの人々に受け入れられるものであり、同時に、束縛のない自由音楽といわゆるシリアスな音楽とのつながりの輪を構築するものと思う。 原理的でコズミックな音楽における偽りの自由、偽りのヴィジョン(具象音)に端を発する悪血、われわれの習慣の構造的な分析(反復音楽)、真の現実への意識(調性体系から無調形式までのクリアな眺望)、新しい幻想に向かった意識的な噴出。

(Eleven ELC 25133 / VM022)


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