ドイツのサイケデリック・ロック・グループ「AMON DÜÜL」。 67 年ミュンヘンにて音楽・反戦といった問題意識でコミューンをつくったアーティスト集団。 音楽については素人の集まりであったにもかかわらず、彼等の生み出した音楽はシーンに大きなインパクトを与えたようだ。 2 年後には、よりポリティカルで実験音楽を追求する AMON DÜÜL とプロフェッショナルなミュージシャン・シップを志向した AMON DÜÜL II に分裂する。
Rayner Bauer | electric 12 string guitar, vocals | Ulrich Leopold | bass, double bass |
Helge Felenda | konga, ambor, vocals | Krischke | percussion, piano |
Eleonora Romana Bauer | schuttelrohr, percussion, vocals | Angelika Felenda | percussion, vocals |
Uschi Obermeier | maracas |
69 年の作品「Psychedelic Underground」。
レイナー・バウアーとウルリッヒ・レオポルドを中心にした第一作であり、その内容は、パーカッションとギター、ヴォイスなどによる密室の狂気と称すべき閉塞感あるノイズの塊である。
アーティスティックなセンスを強く感じさせるジャケットともども、荒々しさの中に若く危うげな表情が垣間見える。
フリーのセッションを素材に、スタジオ・ワークによってコラージュした作品といわれている。
1 曲目「Ein wunderhübsches Mädchen träumt von Sandosa」(17:03)
混沌とした音塊にしばしあっけに取られ、やや落ちついてくるとこの狂乱のカオスが無闇なエネルギーに変わっていくような奇妙な心持ちになってくる。
マリファナでも咥えたら、効果てきめん音楽との呼応が始まってそのまま涅槃へ旅立つところである。
ほぼ全員が叩き続けるパーカッションのせいで、聴覚細胞は均されてしまう。
この惰性のようなビート感には VELVET UNDERGROUND との共通点がある。
ヴォーカルというよりは怒声やうめき声が発せられていて、その声が不思議な糸電話を経由してリスナーとつながってゆく。
そして、リスナーの心の奥底の暗いところにある澱を、次々と外に汲み出してノイズに変えてゆく。
誰もがバランスをとることを放棄した結果、なぜかバランスがとれてしまっているという奇妙な状態が続いてゆく。
ギターは時を刻み、意識を取り戻すためにあり、声は永遠の連続を現すリフレインであり、意識を打ち消すものである。
夥しいパーカッションは、秩序を力強い腕でちぎり取っている。
あからさまな編集とともにピアノが唐突に現れるも、刹那の夢のようにノイズの塊に覆われてしまう。
音は素材から無理矢理削り出すためでささくれだっており、その音から成るリフレインは、みにくさと歪みへの呪詛から邪悪なものとなってゆく。
ときおり不気味なシグナルが送られて、一切が飲み込まれてしまう。
そしてふと気がつくと、すでに混沌のパート 2 へと入っている。
折り重なる凶暴な絶叫は、精神が溶けて流れ去った後に残った滓、燃え尽きる寸前の火花である。
これはまさに延々続く悪夢の BGM であり、あまりに分かりやすいドラッグ・ミュージックである。
2 曲目「Kaskados Minnelied」(2:53)
複数のアコースティック・ギターを叩きつける和音とヴァイオリンのノイズによる、プリミティヴなイメージのデュオ。
ゆるんでしまった弦をひっぱたくような、無造作で気だるい演奏である。
パーカッションの素朴なビートが心地よい。
3 曲目「Mama Düül und ihre Sauerkrautband spielt auf」(2:50)
快調に打ち鳴らされるドラムス、遠くで聞こえる呪文か祈祷、はたまたうめきのような声。
途中で定位が変化して、音は薄っぺらいモノラルになり、ドラムスばかりが神経質に時を刻んで響き渡る。
4 曲目「Im Garten Sandosa」(7:48)
1 曲目同様やや東洋風味あるノイジーな反復パターンが延々続いてゆく。
毛羽立った音とヤケクソ気味の繰り返しは、次第に凶暴さを帯びてゆく。
宗教儀式に通じる独特の酩酊感あり。
単調なようで起伏があり、聞き手の精神に少しづつ染み込んでゆくところは、お寺の読経(日蓮宗のお会式など)や神社の祝詞によく似ている。
(西洋人からみれば、読経や祝詞はおぞましい邪教のパフォーマンス以外の何物でもないだろう)
割れ切った音に罵声や騒音も加わっていよいよ殺伐としてくるが、同時に、魔術的な陶酔感も生まれてくる。
エンディング、すべては轟音とともにどこかに吸い込まれていく。
5 曲目「Der Garten Sandosa im Morgentau」(8:06)
和音を金属的な音でかき鳴らすギターと朴訥としたベースによるやや間が抜けているが緊迫感がなくもない演奏が始まる。
奇妙なファルセット・ヴォイスが演奏に茶々を入れる。
ギターのプレイが通常のコード・ストロークになる辺りから、半ば寝ぼけたような男女の嬌声があちこちで聴こえてくる。
薬漬けのオージー・パーティか、はたまた OSANNA ばりの音楽付き前衛パフォーマンスか。
そんな乱れた世界にもかかわらず、ギターとベースは、わりと誠実に演奏を続けている。
ありがたくも天使が通ったか、クスリが切れたか、ふと途切れる演奏、しかし再びギターがかき鳴らされ、あちこちから同間声やら嬌声やらが湧きあがってくる。
ギターのかき鳴らす和音は次第に形を成し、メロディを暗示し、普通の歌が始まりそうになる。
ベースも調子のいいフレーズで絡んできて、快調な演奏になる。信じられん。
ようやくギターはメロディを暗示するコードを刻み始め、ヴォーカルも加わる。
ベースも動き出し音楽になってくる。
しかし、唐突にテープが引き千切られて終り。
1 曲目よりはドラマがあるような気がする。
6 曲目「Bitterlings Verwandlung」(2:30)
前曲のテープ操作の続きか、切り換えミスか、一瞬だけ行進曲のような立派な演奏が飛び出すも、即時に叩きっぱなし弾きっぱなしのだらしないパフォーマンスに飛びこんでゆく。
トライバルなパーカッション・ビートとノイズの嵐。
厳かな讃美歌が湧きあがるも、さまざまなノイズのうねりとともにカットバックされ、やがて荒れ狂ったまま轟音が何もかもを圧して終る。
徹底してアヴァンギャルドであり、心象風景を音に託した結果のような気もする。
。
轟々たるノイズの嵐と野蛮なビート、そして悪夢のパッチワークのようなサウンド・エフェクト。
1969 年における素人集団によるアグレッシヴなアヴァンギャルド・ミュージックとは何か、を研究したい方はぜひお聴きください。こういう内容に我慢がならないのは、大人としてはごく自然な反応である。
一方、10 代から 20 代にかけては、こういう音にハマりこんでしまう可能性も高い。
大人は、お手軽な社会心理学的説明で自らを納得させるが、この音を前にしては、そういうスタンスは潔くないし意味がない。
今自分がその年頃だったらどうだろうと、まずは考えてみよう。
(MLP 15332 / REP 4616-WY)
Ella Bauer | percussion, vocals | Rainer Bauer | guitar, vocals |
Angelika Filanda | percussion, vocals | Helge Filanda | percussion, vocals |
Wolfgang Krischke | percussion, Keyboards | Peter Leopold | drums |
Ullrich Leopold | bass | Uschi Obermeier | percussion |
69 年発表の第二作「Collapsing」
第一作と同じセッションを音源に製作された。
ドラム・キットの音を強調することで、主役であるリズムは明確化し、第一作よりも楽曲の体裁が整ってきている。
意図的なのか偶然の勢いか、二つのドラム・キットがポリリズミックな文様を描いているところもある。
強烈に歪んだギターが殺気を孕んで迫ってくるところは前作と変わらないが、フレーズやパターンはやや分かりやすくなっているようだ。
効果音やテープ操作といった加工も前作より整理されている。
楽曲をよりコンパクトにまとめることで明確な方向性を持ったプレイを際立たせた作品といえるだろう。
延々打ち鳴らされるパーカッションをフィーチュアすることで、サイケデリックな酩酊感とそわそわするような躍動感を生み出し、明確な流れを作っている。
ノイジーで粗雑な音が奇妙にエキサイティングに感じられる。
1 曲目「Booster(Kolkraben)」(3:03)
ノイジーなギターによる鬼気迫るリフレインと周辺を埋め尽くす太鼓。
缶を叩くような音。
阿呆陀羅教の総会。
ギターは次第にメロディらしきものを奏でて展開を見せるが、すぐに軋んだ古い機械のように金切り声を上げ始める。
再びフレーズらしくなりそうなところで終り。
2 曲目「Bass, Gestrichen(Pot Plantage, Kollaps)」(3:25)
太鼓が雑然と鳴り続けるナンバー。
低音で唸っているのは人の声?ベース?
秘教的ミスティシズム(ひらたくいえばお経だ)。
3 曲目「Tusch FF.」(3:53)
SP 盤のような古びたファンファーレが左右のチャネルから交互に流れ、再び民族音楽風のパーカッション合奏が始まる。
統率の取れているようないないような、妙にバラバラの音。
不気味なヴォーカルが入るとすぐに、何かが割れる音がして終り。
4 曲目「Singvõgel Rückwärts(SinVõgel Vorwärts)」(4:11)
獣の遠吠えに続いて、テープ逆回転効果によるノイズが飛び込むイントロダクション。
一転してゆったりとギターが響き、ドイツ語が一言。
続いてベース、ドラムス、パーカッションがビートを刻み始める。
しかしギターのノイズがリズムをいったん壊してしまう。
不気味な低音のノイズに続き、再びパーカッション部隊が元気にビートを刻み始める。
テープ効果により不気味に変調したヴォーカルが渦を巻く。
ギターとピアノによる歪んだ演奏が突如途切れて、ヒューンと落ちてゆくと、再びパーカッション、ギターが轟々と動き出す。
安定した展開を許さないようだ。
やがて、なにもかもがヘヴィなビートを刻み始める。
ここでようやくロック的なうねりが感じられるようになる。
再びテープ逆回転効果によるメロディが流れ、笑い声のような音が消えてゆく。
テープ効果と、その唐突な挿入で流れを意図的に分断する効果が冴えるのも、ビートの効いた演奏があるからこそではないか。
アヴァンギャルドな演出がなされた作品である。
5 曲目「Lua-Lua-He(Chor Der Wiesenpieper)」(1:40)重々しいパーカッション合奏に、今度はワウ・ギターの鋭いカッティングとベースが加わる。
ベースはブンブンかなりのヴォリュームだ。
停滞ではなく前進するパワーがある。
そしてけだるげな民族音楽風ヴォーカル・リフレイン(ルアルアヘーって何だ)。
メタリックなギターのストロークが強烈。
演奏のフェード・アウトに続き、女性のあえぎ声が重なり合い繰り返される。
最後の一言がレコードの針飛びのようにプツッと切れては繰り返される。どうやらかつての LP A 面はエンドレスだったらしい。
CD では数分続く。
切なくエロティックな効果あり。
荒々しくも官能的なトライバル・ロック。
6 曲目「Shattering & Fading(Flattermänner)」(4:25)テープ処理で揺らぐギターとベース・リフにタンバリンが加わって演奏が動き出す。
ヴォーカルは幽鬼のようなうめきとあえぎ。
ファズ・ベースが力強くギターのストロークが小気味よい。
ヘヴィだが今までの混迷からは抜け出した、ストレートなイメージの演奏だ。
フェード・アウトとフェード・インを繰り返し左右のチャネルを揺れ動く。
全体に音が歪んでいるのは、エフェクトなのだろうか。
弾けるようなドラムス。
ラリったようにつぶやくヴォーカル。
最後もフェード・アウト。
ジャンクで危うげな雰囲気だ。
7 曲目「Nachrichten Aus Cannabistan」(3:13)ファズ・ギターのどんよりしたリフレインとドラム・パーカッションによる強烈なビートから始まる。
ダルな演奏だ。
しかし急にレコードを止めたように、演奏のスピードが落ち消えてしまう。
一転パーカッションがはじけるように鳴り始め、得意の読経風パーカッション合奏へ突入。
微妙にずらされたビートがかけ声とともに強烈なビートを刻み進む。
イントロでは一瞬シャープな展開を期待させるものの、またもやパーカッション・アンサンブルに突っ込んでしまう。
微妙なズレの妙味やかけ声にも食傷気味になる。
8 曲目「Big Sound(Die Show Der Blaumeisen)」(2:09)ギターが刻む能天気なリフが決まったイントロ。
ベース、パーカッションのビートが圧倒的だ。
朗々たるヴォカリーズが、いかにもオーヴァー・ダビング風に重なる。
声部がいくつかあるようだ。
はっきりとは聴き取れない。
ファズ・ベースのリフに先導されて、ギターの激しいカッティングから演奏はクライマックスに達する。しかしすぐに終り。
明快な演奏という意味ではピカ一だが、尻切れとんぼで終ってしまう。
なんとも惜しい。
エネルギーがまとまりをもって放出されて突き進む快感。
9 曲目「Krawall(Repressiver Montag)」(3:31)
車のエンジンをかけるようなノイズ。
走り去る音。
そして始まる、パーカッション合奏。
声と咳が重なる。
再びエンジン音のようなノイズ。
汽笛、またはマイクに近づき過ぎたような声、そしてパーカッション合奏。
ラジオのノイズのような音からパーカッションが響き始める。
動物のようなうめき声と空ろな歌、サックスのような音などが散りばめられる中、ドラムス、パーカッションは続く。
秩序のないミュージック・コンクレート。
デタラメなのだがカッコ悪いということもない。
デッドな音質が生々しさを伝えている。
10 曲目「Blech & Alfbau(Bau, Steinen & Erden)」(2:06)ギターがかき鳴らされドラムス、パーカッションの暴力的なリズムが動き出す。
渦巻く管楽器、または弦楽器の低音のようなドローン、三味線ギター、そして白痴的スキャットが重なり合う。
ギターは民族風の明確なリフレインを刻む。
サステインが不気味な迫力ある演奏。
ノイジーかつ暴力的。
11 曲目「Natur(Auf Dem Lande)」(1:52)鳥のさえずりそして虫の羽音。
そして、一気にパーカッション合奏とギターが立ち上がる。
あいもかわらずノイジーかつエネルギッシュ。
ギターのストロークによるリフと遠くで叫ぶヴォーカルは、意外にもフォーク・タッチ。
再び鳥のさえずり、そして虫の羽音。
ノイズの果てに、ほのかなエモーションを感じさせる作品。
アルバム全体を回想するようなワンパターンでノイジーな演奏であり、パワーに加えてほんのり哀愁も感じさせる。
なかなかいい後味だ。
ドラムスの導入とパーカッション・アンサンブルの採用で、演奏全体が引き締り明確になってきた。
楽曲として分かりやすくなったため、様々な編集や実験が試みられていていることも理解できる。
単純な編集にもかかわらず、意外にも曲に味わいが生まれる。
おそらく、パーカッションのビートと荒々しいギターの強力なコンビネーションによる突進パワーが、編集によって奇妙な捻れをもつようになるのだろう。
そして、そこがまさに本作の魅力なのだろう。
最終曲では、うっすらとドラマすら感じさせてくれる。
(SMLP012 / SPALAX 14949)
Ella Bauer | percussion, vocals, harp |
Rainer Bauer | guitar, vocals |
Klaus Esser | guitar |
Helge Filanda | percussion, vocals, flute |
Ullrich Leopold | bass, piano |
70 年発表の第三作「Paradieswarts Düül」。
サイケデリックでノイジーな前二作から格段の変化を遂げ、アコースティックでフォーキー、そして一種の倦怠感を漂わせる作品が主となっている。
ノイズの塊と雄たけびのようであった狂乱から、はっきりと歌と分かるヴォーカルと柔らかなアコースティック・アンサンブルによるサイケ・フォークへと変貌した。
酒池肉林の宴の後の虚脱感、そして生き残ったことへ安堵ととも何ともつかぬ気持を抱いたまま、現実認識がゆっくりと戻ってくる、そんな空気に満ちたアルバムだ。
個人的にとても好きな作品です。
OHR レーベル。
「Love Is Peace」(16:56)
ハープとギターを主に眠りを誘うようなビートで坦々と進んでゆくサイケ・フォーク調の大作。
けだるい演奏に酔い覚ましのような穏やかさと、これから戻ってゆく現実感へのさきぶれが感じられる。
ヴォーカル・ハーモニーも、素面とはいえ、うわずったような調子のままうねうねと続いてゆく。
ギターのオブリガートやベースとのやりとりなど、要所で奇妙に味わいのあるプレイを見せる。
中盤では、サイケデリックなエコーの海へすべてがいったん沈んでしまうが、すぐにビート感のある演奏が復活する。
刻むようにかき鳴らしたり締まらないソロを延々続けるアコースティック・ギターは、パーカッションとともにきわめてトライバルで呪術的なイメージを高める。
それでも、まだほんの少しだけある夢の名残の浮遊感がたまらなくいい。
ヴォーカルは英語。
「Snow Your Thurst and Sun Your Open Mouth」(9:25)
アドリヴ的なムードの強いインストゥルメンタル。
ギター二本とベース、ドラムス、パーカッションが訥々と演奏を続けている。
ギターのアドリヴに他のメンバーが引きずられるように、次第にリズム/テンポもしっかりしてくる。
一方のギターは積極的に演奏をリードし、ベースとヴィヴィッドに反応しあう一方、もう一つのギターはやや引っ込んで脇を固めるイメージである。
これといった技巧はないし単調、しかし適度な緊張感が心地よい。
音楽というものの魅力の本質を語るような演奏なのだ。
長く緩やかなクレシェンドの頂点でブレイクし、再び音は散らばってしまう。
しかし再び、ひとりごとをつぶやくようなギターのアドリヴを核として、粒子が集まり始める。
ファズ・ギターがそっと寄り添ってくると、まるで冬が去り春がきたように演奏が和らいでくる。
ちょっといい感じだ。
「Paramechanische Welt」(7:34)
力強く進むベクトルと訴えかけるものを感じさせるフォーク・ロック。
何かに向かうような姿勢が感じられるのは、メロディの存在とコード・プログレッションを守ったせいだろう。
アコースティック・ギターのコード・ストロークは、明快でしなやかなパワーにあふれている。
珍しくウェットな情感を携えているが、それでも、いわゆるロック、ポップスに比べればはるかにクールで捨て身である。
ヴォーカルなどのガレージ風の音響処理や、強調されたボンゴのビートがノーマルな進行と拮抗するような感触もある。
ボーナス・トラックの一つ「Eternal Flow」は、ゆったりしたギターのアルペジオとともにヴォーカルが空ろにささやく、きわめて幻想的な作品。
もう 1 曲は 3 曲目のオルタネート・アレンジ。
シングル用のせいか、より分かりやすいアレンジがなされている。
どの作品も、一口には表現しにくい不思議な魅力をもっている。
明らかなのは、前二作と比べて、作曲が感情の動きを分かりやすく反映したものへと変化しているということだ。
明確な演奏と歌詞が聴き取り可能になったことによって、曲を通して伝えたいものがより分かりやすくなった。
おそらく、かの二枚の狂乱のアルバムがあってこそ、この穏やかさ、力の抜け具合を獲得できたのだろう。
宴の後に訪れるけだるさ、むなしさ、そしてほのかな安堵。
わずか三枚のアルバムを通して、作り手の考えや技術の変化がこれほど分かるのも珍しいことだ。
何もすることがない 20 才の日曜日に聴いたら、きっと心に染みるでしょう。
もうグラスは要らないはず。
(OMM 556.008 / CTCD 017)